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今月のつぶやき(スタッフ) 「父のこと」
- 2022-07-01
- diary
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父のこと
今年は6月19日が父の日でした。少し長くなりますが、東工大OBである父のことをお話しさせてください。
母が亡くなり実家を片づけていたら、仏壇から父の履歴書が出てきました。父は仕事の詳細を娘たちに話すことはなかったし、履歴書を見るのも初めてです。履歴書には、機械工学科を出た父がM造船(のちのM重工)の長崎造船所でタービン設計を担当し、5年後には新しくできたM原子力工業で原子炉を担当するようになったとあります。原研国産1号炉や東工大の未臨界実験装置にも関わったとあり、さらに3年後、この分野での先進国である米国のW社に、訓練生として長期派遣されたともあります。父が結婚前、米国に単身赴任していた理由がこれでわかりました。
履歴書には40歳で神戸の設計室長に就任し、関電や九電、四電の原子炉を設計したとありますが、米国の技術者とのお付き合いも続いていました。米ソ冷戦の中、レーガン政権は技術開発に力を入れており、原発や宇宙開発はその筆頭でした。米国に出張する時は、羽田から小さなパンナム機です。帰国便の給油地がアラスカかハワイかでお土産が全然違うので、子供たちの関心事はもっぱらそこでした。
原子炉は、軽水炉から高速増殖炉へ進化を遂げ、50歳になった父は、国のプロジェクト「もんじゅ」開発に加わります。日本も、国産の高速増殖炉(原型)を開発・運用できるようになったのです。父は、国の原子炉の名前は菩薩様から取ったものだと母に話していました。それで「文殊」や「普賢(ふげん)」といった風流な名前の炉が誕生したのでした。
父はその後M社に戻り、定年後は、欧米の原子力機関や安全委員会などの文書の翻訳を請け負っていました。事故の報告書や、原因分析、予防プログラムなどについての文献で、英語ができても設計がわかる人でないとつとまらないというのが父の持論でした。原発の光と影を知る父ですが、2011年の震災で、何重にも設計されているはずのセーフティプログラムが機能しなかったことに、納得いかない様子でした。M社と長年協力関係にあったW社が他社に買収された際も、憤慨していました。お葬式にはM社や東工大の囲碁仲間が桐ケ谷に駆けつけて下さり、父が娘たちのことを自慢していたと教えて下さいました。父は男の子が欲しかったと思っていたので、意外やら悲しいやらで涙が止まりませんでした。
父の卒論は何だったのかと思い、東工大の窓口に問合せると、個人情報なので開示できないとの回答。書いた本人も配偶者の母もいない今、遺族は私と妹だけです。悪用はしないなどと事情を説明して粘ったところ、テーマは超音速ですと教えてくれました。当時は最先端の研究分野だったのでしょうか。さらに担当者が見せてくれた書類に、丸刈りで少し暗い表情をした学生の白黒写真がついていました。母によれば、長男だった父は富士川そばの村から甲府にある県トップの高校に進学し、理解者を得て上京したそうです。秋から冬の夕方、大岡山キャンパスの南側には富士山のシルエットが大きく広がります。後にした故郷の山を父がどんな想いで目にしたか、いつも考えてしまいます。